Q. まず、ブルースハープについて、簡単に説明していただけますか?
A. ブルースハープというのは、ハーモニカの製作で有名な会社「ホーナー」の製品名で、種類としては「テンホールズ」すなわち10穴ハーモニカと言います。
一つの穴に対して、息を吐く・吸うで2つの音程が出せます。ただ、調律がダイアトニックになっているためクロマチック・ハーモニカと違って、基本半音は、息の入れ方で演奏者が作ります。そのため、色んなキーのハーモニカをいくつも持っていき、転調すると途中で持ち替えたりします。
Q. この仕事に就いた経緯を教えて下さい
A. 実を言うと、プロになろうとしてプロになったという感じがあまりありません。(笑)
私は大阪出身で、1967年当時はベースを弾いていました。その頃関西地方は東京に先駆けて、フォークソングやブルースが大変盛んでした。アリスの谷村新司、フォーククルセーダースの加藤和彦、赤い鳥など、将来の大物がいっぱいいます。私も色んな人のグループで演奏してました。
1971年にヤング・ジャパン国際親善演奏旅行で、谷村新司ロックキャンディーズなどでアメリカを一ヶ月にわたって演奏旅行した後、上京しました。当時はフォークのメッカだった吉祥寺に住んで、その後埼玉の[米軍ハウス]に引っ越しました。ここは家賃も安く生活費もかからないので、毎日「ぼけ〜」とした生活でしたね。といっても、泉谷しげるのバックバンドをやったり、スタジオの仕事(ハーモニカ)もやっていました。当時は、電話が無かったので仕事の依頼は電報でした。
1976年に結婚して、子供も生まれてお金もいるわけですが、あまり何も考えていませんでした。この頃は、泉谷しげるのバックバンド「ラストショウ」、そこには島村英二・徳武弘文など売れっ子ミュージシャンも参加しています。バンド単独で仕事をしたり、色んなバックバンドをやっていてそれなりに活動していたのですが、1980年頃からいよいよ仕事が無くてもう大阪に帰るしかない、という時、「中島みゆき」のコンサートツァーの仕事が入ったので東京にとどまりました。慣れないクロマチックハーモニカでアンコール一曲だけだったのでさすがに退屈で困りました。(笑)
その後ある人から「日本には、ブルースハープの教則本がないので書いてみたら」と言われたのが1984年。一年かかって作った教則本は予想に反してバカ売れ!自分の性格からも、このあたりからハーモニカ奏者としてやっていく事が決まった感じです。
Q. その頃のスタジオの仕事はどんな様子でしたか?
A.フォークやニューミュージック台頭期で友人がいっぱいデビューしていたから色んなセッションに呼んでいただきました。でも特殊な楽器なので、ほとんどがダビングです。実はこの頃まで、楽譜はおろかコードも理解していなかったし、ずっと気分と勢いだけでやってきた感じです。まあ、時代も良くてヘッドアレンジみたいなものも結構あって、早く仕事が出来ることより、センスを買ってくれたような仕事が多かったですね。でも、同録の仕事がたまにはいると、もう弾けなくて居残り。
Q. 教える仕事はしていらっしゃいますか?
A. 教則本の出版と同時に今も続いています。何より良かったのは、順番が逆ですが、人に教えるために自分が一生懸命勉強しました。これは、スタジオはもちろん自分の演奏の幅を大きく広げました。
しかし、教えることも大事ですが自分の演奏活動こそ一番大切にしたいです。
Q. 1947年生まれの松田さん、子どものころはどんな音楽を聴いていましたか?
A. 音楽一家で、コンサートだとか音楽のためならお金を出してくれる親でした。私は6人兄弟の末っ子で、兄弟の持っていたレコードなんかをいっぱい聴いていました。洋楽が多いのですけど、兄弟によって聴く音楽が違うのでいろんな音楽が聴けました。
それと、小学校2〜6年生の担任がずっと同じ音楽の先生で、クラシックをよく聴かせてくれました。その先生の指導で作られたハーモニカオーケストラで、僕らは大阪市長賞をとりましたよ。
あとでわかったのですが、この先生は特攻隊あがりで、そのせいか、生きて音楽をできる喜びをすごく感じていたのではないかと思います。彼は絵も好きで、うまい下手よりも何か面白い発想で描くといつも褒めてくれました。自由の尊さを知る人だったのだと思います。
Q. 録音の仕事で、今と昔ではどのような違いを感じますか?
A. 楽器を吹くときは、ほとんど感じません。一番感じるのは何本もの楽器を一人で運ぶときです。たまには手伝ってくれる人もいますけどね。
Q. 最も影響を受けたミューシャンは?
A. アメリカのブルースハープ奏者、チャーリー・マッコイですね。1979年渡米のおりに会うことが出来ました。そこで一番感じたのは、自分は日本人であるということでした。
1941年生まれ。主にカントリーミュージックの世界で活躍。アメリカNo.1といってもいい類い希なるハーピスト。
写真:TCMブログより転載
2014年10月12日
京都カントリードリーム
Q. 自分のプロジェクトはお持ちですか?
A.1996年にファーストアルバムをインディーズから出すことが出来て、それ以来ずっと自分のグループでライブを続けています。アルバムも5枚出しています。これからも発信していきたいと思っています。
Q. 今、旬なミュージシャンや若い皆さんに何か一言お願いします
A. 私はどちらかというと、自由気ままに生きてきたと思います。もっと、気楽に何でも仕事を引き受けていたらもっとお金になったかもって言われることがあります。でも、どうもそう言う事ができないタイプなんですね。それでも何とかこの年になっても続けられていることに幸せを感じます。人生はひとそれぞれということですかね。
Q. では、最後にお訊きします 松田さんにとって「legend」と呼べる方は?
A.僕にとってのレジェンドですが。時代は変わわるんだ、と歌うBOB DYLANこそ、僕のレジェンドですね。60年代半ばのフォークから後半のロックと変換していく時代、ラジオから流れてくるヒット曲にしては異例に長い「Like a rolling stone」。
これを聴いて街に飛び出していったわけ。
これからどうして大人になるのか悩んでいた時、背中を押されたのがBOB DYLANでした。今日までパフォーマンスは様々変わるけれどその魂はブレない。そこがたまりません。
インタビュー後記
スタジオミュージシャンと呼ばれる人は、どちらかというとどんな仕事でもどんどん引き受けて吸収していくタイプの人が多く、またそれを目指す人が多いと思われます。アーティスト系ミュージシャンの中には、いわゆるスタジオの仕事はやらないというミュージシャンも少なくありません。
松田さんはどちらかというと後者のグループに近いと思います。自分の音楽観にはっきりした芯=主張を持ち、且つ非常に柔軟な面を持つ方だと、インタビューから感じられました。音楽に対して色んな価値基準がありそれは個人的なことであり、人生そのものも価値観はそれぞれだと思います。Legendそれぞれの生き方が、自分の立ち位置を考える参考になれば幸いです。
◆RMAJ NEWS No.29 2016. May 掲載◆