篠崎 1

Q. この仕事に就いた経緯をお聞かせ下さい

A.高校在学中、16〜7才頃です。プロのバイオリニストの姉に連れられてスタジオの仕事に行ったのが最初です。カラーテレビのCMだったと記憶しています。それ以後スタジオの仕事をするようになりました。「巨匠」のニックネームで知られる小林陽一郎さんに呼んでいただけるようになり、まだまだトゥッティ(その他大勢)でしたが忙しい毎日でした。

Q. ご自身のグループはいつ頃からどんな経緯で活動するようになったのですか?

A.スタジオの仕事を始めて数年後だったと思うのですが、色んな方からトップで呼んでいただけるようになった頃、当時は良い演奏者も足りない上、非常に未熟なメンバーがいるのが普通という時代でした。後ろの方の奏者は難しいところにきたら弾かないという様なレベル。
自分がトップで弾くからには、グループとしても良い音を出したい、信頼出来るメンバーと仕事をしたいと思うようになり、自分でメンバーをあつめてグループでも活動するようになりました。

Q. 実は、ミュージシャンには特になりたかった訳では無いと聞きましたが

A. 音楽よりも車が大好きでした。近所に仲間もいて、整備工場を経営することを着々と準備していました。開設に必要な「自動車整備士2級」は、3級取得後に実務経験が数年必要なのですが、3級取得後に結婚して子供が生まれた事で、生活のためには、とにかくスタジオの仕事を続けざるを得ず、車の夢にはなかなか行くことができないまま、今日まで来てしまいました。
今や、車と言っても、もはやコンピュータのようなもので、整備士の魅力も無くなってきましたが。

Q. ツアーの仕事もなさってましたね

A. 1975年頃だと思いますが、布施明さんのツアーの仕事が入り、年間120本くらいありました。布施さんとはご近所で、仲良くさせていただいていました。
また、アレンジャーの瀬尾一三さんの仕事で、中島みゆきさんの録音も何度かあり、彼女がヤマハ所属というつながりから、NSPや阿呆鳥のツアーにも行きました。 当時スタジオで売れている人は、ツアーを避ける人も多かったですが、私は人前で演奏する事が好きで、ツアーの仕事はとても楽しかったですね。

Q. 今や伝説となっている黒部ダムからの紅白歌合戦生放送ですが、モニターはどうでした?

A.とにかく寒かったです。私がツアーに出る頃には、コンサートでもモニターが使われる時代になっていましたが、トラブルがあると全くモニター無しとか良くあったので、黒部ダムでも色々大変な状況の中でしたけど、それで慌てることはありませんでした。

 

Q. 作編曲の仕事はいつごろからですか?

A. 1980年にファーストアルバムを出したのですが、それを聴いてくれた人から仕事を頂くようになり、最初はCMでした。また、劇団青年座からもオファーがあり、舞台音楽も手がけるようになりました。その後、CDも何枚か出しましたが、その甲斐あってかNHKやフジテレビの曲も書かせていただきました。

Q. マサさんと言えば、映画「ラストエンペラー」の二胡演奏は、非常に有名ですが

A. パーカッションのYAS-KAZさんと一緒に「風雅抄」というグループで活動していたころで、「笛」のメンバーが中国人で、二胡を弾くように勧められたのですが、当時は持ち方すら分からない時代です。
桐朋音大作曲科の留学生だったと思いますが、奥さんがチェリストで、二胡が弾けるので教えてもらいました。 中国のオケでは弦全員が二胡に持ち替えて弾く、なんてことができたみたいです。作曲家の「三枝成彰」さんはよく使ってくれました。

篠崎 3

Q. さて、RMAJ関連の事でお訊きしますが、SMC(RMAJの前身)の発足と著作隣接権との関係は?

A. 1971年、米軍のためのラジオ放送FEN(far east network)が、著作隣接権の支払先をきいてきたのが最初だと思ってましたが、どうも、1964年ローマ条約の発効後から日本では加盟に向けての準備 がされていたようです。1971年に著作権法が改正されて、FENから支払いがあったということのようです。
当時はま だ日本に著作隣接権の分配システムが無くて、とりあえずプールされていた隣接権のお金は、法整備されて1988年に団体分配されることになり、受取団体としてSMCができました。その後紆余曲折ありながら、全て個人に分配されるようになりました。MPNから年2回入るお金です。

Q.好きな音楽は?

A. 資料としてあらゆる音楽は聴いてきましたが、バート・バカラックかな。あと、ポール・モーリアのようなイージーリスニングが好きです。

Q. 次世代のミュージシャンに何か一言お願いしいます

A. 参考になるかどうかは分かりませんが、自分の時代に、音楽のリズムが随分変化してきたと思います。対応するため、リズムトレーニングをみんなでやったこともあります。リズム隊に比べれば、管弦の世界は変化の影響は少なかったかも知れませんが、対応する必要はありました。
今の若い人は、基本的演奏能力については高いと思います。しかし、仕事として時代が変化を求めることもあるし、価値を感じて演奏できる自分を持ち続けないと、よい音楽は出来ません。
それともうひとつ、私は美味しいものを食べるのが好きです。一人だと料理しませんが、人が食べてくれるとよく料理をします。「美味しいものを食べたかったら、工夫しなさい。」音楽も同じだと思います。

篠崎 2

◆RMAJ NEWS No.35 2019. July 掲載◆