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Q. まず、この仕事に就いた経緯を聞かせて下さい

A. 私の父は、日本の西洋音楽の黎明期の第一線で活躍したクラリネット・サックス奏者で、日本で初めて「ラプソディ・イン・ブルー」冒頭の有名なフレーズを演奏した人です。作編曲家としても活躍しました。もちろん放送業界でも仕事をしていましたし、そのつながりもあって、私は6才の頃から子役として活動していました。最初は、まだラジオの時代でしたが、映画「怪人二十面相」や「ノンちゃん雲に乗る」などに出演しています。
楽器は、小学6年生11才の時にクラリネットを始め、自然にのめり込んでいき、当時NHK交響楽団の首席クラリネット奏者大橋幸夫先生に師事しました。
父といい、大橋先生といい、最初の段階から最高のレッスンを受けられて恵まれていましたね。
その後、国立(くにたち)音楽大学クラリネット科に入学して、アルトサックスを吹き始め、在学中からアルバイトをしていました。この時代は、ナイトクラブや今で言うライブハウスの仕事がたくさんあって、トラ(extra=臨時の交代要員)だけでも結構忙しくて良い収入源でした。
大学卒業時に、ミュージシャンとしてすでに活躍していた兄の紹介で、当時ナイトクラブとしては最高峰の「ラテンクォーター」に出演していた「海老原啓一郎とロブスターズ」のテストを受け、リードアルトサックス奏者として採用されました。ここは、外国からの多くの素晴らしいエンターティナーも出演していて、超一流の人がアレンジした楽譜を持ってくるので大変勉強になりました。
また、メンバーの先輩方は全員スタジオミュージシャンでしたので、そのつながりですぐにスタジオの仕事も入ってくるようになりました。

Q. クラシックの世界からいきなり軽音楽の書き譜の 仕事はどのような感じでしたか?

A. やはり、軽音楽の楽譜は、最初は戸惑いました。いわゆるIN2の譜面や、タンゴの譜面など。ただ、一番大変だったのはジャズやラテンのリズムに乗ることでした。

Q. スタジオの仕事を始めた頃の様子はどうでした?

A.前回の旭さんの記事にも詳しく書いてありましたね。旭さんは大先輩ですが、スタジオに入ったのは僕の方が早いかもしれません。よく一緒に演奏しました。
当時は、夜いろいろなお店でバンドの仕事をしている人が殆どなので、レコーディングは朝から夕方、その後バンドの仕事をして、そして夜12時からレコーディング、そのまま朝9時の仕事に行くと言うこともありましたね。何故かというと、夜中にならないとメンバーが集まらいないという事情がありましたので。
私がリーダーのコンボバンドを解散して30歳でフリーになると、自分の時間ができて、いろいろな仕事が入ってきました。
例えば松山千春さんのツアーや岸洋子さんのバンドリーダーも務めましたが、メインはスタジオの仕事でした。
やはり、フリーになると言うのはその頃でもそれなりの緊張感はあったと思います。バンドに所属していれば給料が入り、ある程度安定した収入を確保できましたから。

Q. スタジオミュージシャンの今と昔、比べるとどうですか?

A.昔はサムライのような個性ある、とっても素晴らしいミュージシャンが多かったとは思いますが、今の若い人たちのリズム感、音楽的センスは、すぐにでも世界に通用しますね。見るもの聞くもの、周りの環境が大幅に違っていますからね。ね、マサさん。

篠崎. そのとおり!

Q. 仕事が一番忙しかったのはいつ頃ですか?

A . ずっと目一杯やっていましたけど、1975年から2000年くらいが一番ですかね~。
その頃は、ステージの仕事も色々ありました。ベルリンやハンガリーでオーケストラをバックにアルトサックスのコンチェルトを演奏したり、Dave GrusinのLiveにも参加しました。
そういえば、Dave GrusinのLiveではマサさんがストリングスのトップを弾いていましたね。マサさんがひとり入っただけで、あんなにいい音になるんだ!とビックリしたことを覚えています。世界最高のミュージシャン達とのアンサンブルはとても刺激的で勉強になりました。

<注>Dsve Gruisin
Fusion Music黎明期の巨匠、Pianist
映画「卒業」のテーマなど、米国グラミー賞10回受賞

Q. Jazzなど、軽音楽で影響を受けた人は?

A. Jazzでは、デュークエリントン楽団のリードアルトサックス奏者Johnny Hodgesに一番影響を受けました。
音色とフレーズの吹き方、特にポルタメント奏法は他に類を見ないので、一生懸命真似しましたねぇ。僕が助平サックスと言われる所以でしょう(笑)。

高市. スタジオでの演歌のお仕事での出来事ですが、リハーサルと本番の間に佐野さんが私のブースに来てくださり、周りにはわからないように演歌ならではの歌い回しをアドバイスして下さったことがあります。

Q. 第一線で活躍する佐野さん、年齢を感じることは?   

A. 楽器を吹くときは、ほとんど感じません。一番感じるのは何本もの楽器を一人で運ぶときです。たまには手伝ってくれる人もいますけどね。

Q. 教える仕事はされていますか?

A. 生活の糧として教える仕事はしていませんが、ボランティア的なものはずっとやってきました。RMAJが企画協力しているJASRACコンサートのプレ企画で、毎年、開催地の中学校吹奏楽部に指導に行っているのもそうですね。
日常的には、住んでいる地元の中学校の吹奏楽部などは色々面倒見てきました。特にコンクール前になると顧問の先生に「見てほしい」と言われて飛んでいって色々アドバイスした結果、それなりの成績も収めてくれました。
もちろん自宅でも、依頼があれば、プロを含めて色んな人のレッスンはしてきました。

アウトリーチ

Q. 今後、ご自分のプロジェクトなどお考えですか?

A.決まったプロジェクトということではないですが、今までも、私のオリジナル曲「ONE LOVE」をタイトルにしたコンサートを、その時々で編成や規模を変えてやっていますので、今後も続けていきたいと考えています。今年10月には地元世田谷で野外コンサートをやり、1000人くらいのお客さんが集まりました、入場無料ですけど、CDは売れました。

Q. レコーディングの仕事は非常に減ったと思われますが、そんな時代の後輩に何かひとこと

A. 確かに、自分たちの時代はレコーディングやステージの仕事がたくさんあって、良い時代だったかも知れませんが、常に仕事に追われていて自分の時間はなかなか持てませんでした。今は、仕事に追われることが少ない分、作曲編曲、執筆や4人の孫の世話に追われています(笑)。
僕はステージでいつもこう言います。「真の芸術と言うのは皆様の心の中にあると思います。今日は、その心の扉を開いて私の演奏をお楽しみください。」色々な悩みや昔のよい想い出などが交錯するのでしょう。涙を浮かべる人、号泣する人、私の話を聞いてお腹を抱えて大笑いする人。最後に「皆さんの心の扉は開きましたか?」と聞くと大拍手。偉そうに聞こえるかもしれませんが、本来、音楽は人を楽しませ自分も楽しむものだと思います。
若い方は、たくさんの仲間をつくり、でも人に頼らず自分で門戸を開いていけば、必ず結果はついてくると思います。人生はアンサンブルですから。

神楽殿

Q. では、最後にお訊きします
佐野さんにとってレジェンドと呼べる方は?

A. たくさんいますが、ひとり挙げるとすれば、私の父です。
父は70歳の時、90分カセットテープ10本に自叙伝を録音しました。私は、父が87歳で旅立つ寸前、「佐野鋤(たすく)・音楽とその生涯」を三一書房から出版しました。特に昭和17年、数か月に渡った南方皇軍慰問芸術団の話は、歴史的にも凄まじいものがあり、父の日記にはその時の状況が詳しく書いてあります。また、ブンガワンソロなど南方の多数の楽曲を日本に紹介したことも書いてあります。
明治、大正、昭和を音楽とともに生き、関東大震災、戦争を乗り越え、最後まで音楽という武器で戦ってきた父が、私のレジェンドです。

インタビュー後記
リーダーというのは常に決断を迫られていて、しかも責任をとる立場です。そういう意味では強引さが必要なこともあると思いますし、それが嫌われる原因にもなりかねません。しかし、私の知る限り佐野さんは、いつも肝心なことや言いづらいことは自ら電話をかけてきてくださいます。また、少しでもお手伝いをすると、過分なお礼を言ってくださいます。
また、高市さんの話にあるように、後進に自分のキャリアを伝えることに骨身を惜しみません。RMAJ会員にはこれからリーダーとなっていく人も多いと思いますので、スタジオで佐野さんに会ったら色々お話ししてみてはいかがでしょう。

◆RMAJ NEWS No.28 2015. Dec. 掲載◆